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Nanpa is Suicide

誰でも読めるが、誰にも読めないブログ。

なぜ春樹に似てしまうのか

最近、村上春樹をよく読んでいる。超遅れてハルキブームが来た。

小説は怖いからあまり読んでいない。『風の歌を聴け』を読んだぐらい。僕はある作家の小説を読む時に、まずデビュー作を読むようにしている。

デビュー作は、まだその作家が世間から注目される前に、一人でひっそりと書いたものだ。金になるかも評価されるかもわからない状態で書いたはずだから、手探りな感じがあっていいなと思う。

風の歌を聴け』は、断片を組み合わせてつくられている。思いついたことを一つ一つ膨らませて、物語として成立するように再構成している。これは読めば誰でも気づく。小説を書き始めた僕にとって、断片を組み合わせる手法は、非常に参考になった。『羊をめぐる冒険』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』など、身体の大きい物語は、今の僕が読んでもわからない。

物語の大きさと書き手の力量は比例すると思う。もちろん短編が上手い作家もいるが、別の種類の能力である気がする。

言いたいことはなんとなくあるが、それをどう書けばいいかわからないし、なんとか繋がるように書いても、月並みで読むに耐えない…ならば断片の密度を上げて、後から再構成するしかない。

僕はいつか身体の大きい物語を書きたいのだが、足りないものが多すぎる。まずは小説を書く身体だと思う。

春樹も小説を書く上で身体を重視している。朝早く起きて走り、それから小説を書き、夜は読書と音楽鑑賞…という、彼の生活スタイルはよく知られている。

僕は小説を書き始めて、初めて自分の身体について考えるようになった。春樹は小説を書くことを「個人的でフィジカルな行為」と言う。もしかしたら小説を書くことは、あまり知的な営みではないのかもしれない。

僕は他人の小説を筆写するようになって、この考えを信じるようになった。

まず自分の身体の上に意識がある。身体のあり方=意識のあり方によって、どのような文章が出力されるか決まる。その次に、それまでの読書経験が影響してくる。

筆写していると、作者が引き気味で書いているとか、踏み込んで書いているとか、対象に対する距離感が伝わってくる、ような気がする。

作者がどんな効果を狙って書いたか、論理的に説明できなくても、なんとなく見えてくるというか、「それっぽさ」が手に感染する、ような気がする。

「ような気がする」としか言えない。

だから僕の妄想かもしれないし、存在しない感覚を頭の中ででっち上げているだけかもしれない。

あるいは、毎日小説を筆写するという無意味な行為に、何か都合のいい意味をこしらえているだけなのかもしれない。

しかし創作には、どうもスピリチュアルめいた要素があるようで、でっち上げの感覚でも飛び込んでみないとわからない。

だから僕は滝本竜彦さんを笑えない。

引きこもりの神は、瞑想しながら小説を書くらしい。

僕は真剣に思うのだが、

もしかしたら彼は、ハルキ・ムラカミになれたかもしれなかった。

専門的なことはわからないが、朝走ってから小説を書くことと、瞑想しながら小説を書くことは、紙一重の差でしかないと思う。

世界のハルキ・ムラカミ、

文学なんかに全然興味がないビジパー(ビジネスパーソンの略です)にも、仕事の姿勢を尊敬される、ハルキ・ムラカミ、

タツヒコ・タキモトも、そうなれるかもしれなかった。

高橋源一郎が「言語とは他者である」と言ったらしいが、一番正確な表現だ。

「言語とは身体である」と言ったら嘘だろう。

身体という概念を、個人の肉体だけではなく、社会も含めた身体にまで拡張したら、少し正確になるかもしれない。

しかし、身体は社会を超えたものでもある気がするから、やはり正確ではない。

春樹は小説を書いている時に、他の文章を書かないらしい。

それをやると、

「小説が痩せる」

行き詰ったらブログを書こう。